481431 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

勝新太郎さんと日本映画を振り替える…

よく来たな     
                     
   吉馴 悠の勝さんを思うこと
    1
「よく来たな」と言って私のあごひげを引っ張り恥じらうような笑いをくださった勝新太郎先生のことをよく思い出している。
「思い出すことで生き返るんだよ」そんな意味のことばをどこかで語っていたのを聞いたことがある。
今、どうして勝さん、(そうよばせてください、私の中でそれが最高の愛称なのです) 縋りついても仕事をしたいと言わなかったのか、それが心に残る後悔なのです。
勝さんはヒット作が出るまでいつも端役より少し上で我慢していました。長谷川一夫、市川雷蔵、三番手が勝新太郎でした。私は映画「かんかんむしの歌」がすきでした。ドッグに入った船に差張りついている貝殻をかんかんとたたいて落とす青年の物語でした。そこには心に秘めたものを持ちながらじっと出を待つ勝さんの姿がありました。
「おい、自由に生きろ、それが一番だよ、だがな苦労はするぜ」
スクリーンから聞こえてきていました。私にだけ・・・。つづく

   2
勝さんとそれからしばらくはあっていない。というのは勝さんの主役の映画なかった、長谷川一夫、市川雷蔵の活躍の陰でキャストとしてなお連ねるが半端な白塗りの役が多かった。それらは私は見ていない。再びスクリーンで見たのは「不知火検校」という稀代の悪役のものだった。美白の青年の影は消え役に沿った個性が、演技゜が冴えていた。勝さんの脱皮だった。この映画はヒットして一躍勝さんは躍り出て困惑していた。
ここで少し寄り道をしたい。中村錦之助、東映に入ったときには子供だましのものにたくさん出ていたが、当時の海員学校を描いた現在物は「青春航路 海の若人」は新鮮で、彼の開花であった。錦ちゃんは股旅ものをさせたらだれも追従を許すことはなかった。長谷川伸さんの書いた股旅ものは錦ちゃんのために書かれたように、水を得た魚のどこく生き生きと新鮮に演じていた。この頃の錦ちゃんは山本周五郎さんの町人物にもその味をいかんなく発揮していた。「宮本武蔵」「柳生十兵衛」「切腹」「織田信長」「親鸞」「大菩薩峠」などたくさんあるので書けない、そして、萬屋錦之助としてテレビの「子連れ狼」に続く、が、彼は時代劇においては不屈の名優であった。錦ちゃんを超える人を知らない。
中村錦之助、市川雷蔵、勝新太郎、日本の時代劇では欠かすことのではない存在である。
勝さんのことは・・・つづく

    3
世界を席巻した「座頭市物語」日本の映画界でこれほど外国の人たちに見てもらった映画は前も今もない。カストロ氏、ジャッキーチェンの例を待つまでもなく世界に波及し勝さんにあこがれた人も枚挙のいとまがない。世界がそのようだったことは日本では大変なことになっていた。観客は押しかけ満員打ち止めということになっていた。
子母澤寛さんが書いだ短い雑文から広大な作品群が生まれたことは作者は知らない。脚本家冥利の題材で腕をあげた人が多くいた。
「目の不自由な按摩の居合の達人がいた」二百文字程度のものだった。
ここから映画、テレビで百五もの作品が生まれた。
第一作「座頭市物語」飯岡と笹川に一宿一般の義理で平手造酒と座頭市が橋の上で死闘を尽す、この物語では二人の間に友情が芽生えそれでもやくざの義理で戦う。
「斬っちゃあいけねえ人を斬っちまった時にはもう目の前は真っ暗になってしまう…、ハハハハハ・・・。  目の前ゃあはなから真っ暗だよ」
 こんなセリフがなじむものだった。
「不知火検校」で一躍スターダムに躍り出た勝さんはこの作品で押しも押されぬ不動のスターに駆け上っていった。その時、「かんかん虫の歌」の勝さんが脱皮して勝さんという蝶が舞った瞬間だった。が、私は勝さんのデビー作のこの作品を忘れることは無い…。
ダメ押しは「悪名」シリーズ、「兵隊やくざ」シリーズ、と続き、「座頭市シリーズと並行して大入りの観客を集め日本中を沸かせる映画になっていく。
祇園、銀座の豪遊、破天荒な勝さんの英雄伝がここから始まるり、愛妻中村玉緒の結婚へと流れていくのです…。つづく

     4
勝さんが中村玉緒に一目ぼれ、当時、勝さんの実家杵屋は三味線の全国の元締め、玉緒さんは歌舞伎の中村鴈治郎の娘、という間柄、2人の愛は静か、いいえ、撮影所では二人を気遣って、勝さんが撮影しているときに玉緒さんが押し掛けてくるということはしばしばあって、撮影もその都度中止になった。勝さんより玉緒さんの方が積極的に行動していた。
今、玉緒さんを見るとその突撃精神はサンマをボケで押しまくっている事でも鴈治郎の娘として本領を発揮している。
滞りなく結ばれるが、祇園に銀座に勝組の役者を連れて出没し、クラブで飲んでいてそこにいる客を全員連れて次のクラブへとその繰り返しで、勝さんの後には百人近くがぞろぞろと次のクラブへということは語り継がれていることだった。その人たちはすべてその場で勝さんのファンになり勝さんの映画を見ることになる。銀座の各クラブも、祇園の女性も金払いのいい勝さんのファンが多く客と一緒にスクリーンの勝さんを見ることになった。
座頭市は、悪名は、兵隊やくざはそのように勝さんが身銭を切り遊んだことでより盛り上がりロングのシリーズとなり世界の勝さんへと飛躍していった。
私はその頃家人の倉敷にいても勝さんの映画はすべて見せてもらった。
勝さんを役者バカというが、それは当たっている、が、勝山さんの豪快な遊びが勝さんを造りファンを熱狂させたというる。
後に篠田正浩監督の作品を何作か手伝うことになるが、岩下志麻さんの美しさもさることながら玉緒さんの明るさとチャーミングにもいつもドキドキしていた。やはり勝さんには玉緒さんが一番似合っていた。オシドリ夫婦、何があっても離れなかった玉緒さんに感謝と賛辞を贈りたい。
が、私には「かんかん虫の歌」の勝さんが、その原点が心に残っています。いくら日本を代表するスターになってもその頃の勝さんが好きなのです。
シャイでお茶目な、その照れた顔は、今も私に「よく来たな」と言ってくれている。
黒沢映画の現場にカメラを・・・。   つづく


 よく来たな   6

世間では黒沢監督を天皇と呼んでいた。これが昔なら不敬罪に相当する。これについて黒沢氏も私は天皇ではないと否定していない。この人に不信感を持ったのはそこにある。が、天皇を崇拝する人たちからもその声が出てないとすればみんなが認めたことになる。私は天皇という言葉を黒沢氏の例えとしても使ったことがない。
まあ、沢山の作品を監督したものだと関心はする。私はこの人の作品をほとんどみていない。だから作品については何も言えない。あまたの作品の中で「生きる」位なものです。
黒沢氏はもともと画家志望で挫折して映画の世界に入った。コンテには自信があって当然だ。山本嘉次郎作品の助監督がデビュ―となる。これほどの監督になるとは山本監督も予想はしていなかったに違いない。
「影武者」の撮影に勝さんが八ミリを持ち込んでそれがもとで降ろされたということは知っている。黒沢ファンには悪いが勝さんを知らなかった、彼の生き方ものの考え方行いとする人間勝さんを知っていれば最初から勝さんを使わなくても良かったはずである。この世界は特別なにおいに満ちている。また、その傲慢な姿勢がなくては監督も俳優も個性を殺される。マスコミは勝さんを非常識と言ったらしいが、芸能界というところその非常識で成り立っているところが多い。その当時各映画会社は毎年ニューフェースを俳優の卵として入社していた。が、俳優の卵の女性はほとんどその会社の売れっ子の俳優にもてあそばれていた。それが芸の肥やしという世界なのである。
黒沢氏も高峰秀子と恋愛関係があった。彼の作品に出ていたことで始まった。これは映画を宣伝する格好のスキャンダルでもありよく使われた。黒沢氏については真意はわからない。
が、世界に名を成す監督が激高するとは頂けない。言って諭すくらいのおおおらかさがなくてはと思う。この作品の宣伝は勝さんがおろされたことで数十億にも相当していた。
勝さんを擁護しているのではない。この件で銀座のクラブのママを喜んだはずだ。勝さんは苦い酒を飲んだのだろうか。勝さんの背後には全国の組織杵屋三味線の総元がある。また、勝さんのファンの夜の女性軍団がいる。彼には世界での日本映画「座頭市」という資産がある。
勝さんがここで留まることはなかった。
俳優の交代など当たり前のように、監督の気まぐれで行われていた。
監督によっては俳優を人間とみていない人もいた。まず、エキストラは人格を持たない人形として扱う、ただの風景なのだ。映画に出してやるのだからありがたく思え、ノーギャラで使う、よくて宣伝のために作ったTシャツだけで使う。それに対して文句を言わない、ありがたく喜んで着て歩く、そんな世界なのである。
勝さんは書けなかったが・・・つづく

よく来たな   7
黒沢さんとのいきさつの後、裕次郎、錦之助、三船敏郎、各プロダクションとの共作の時代が続いていく。私個人の意見ではすべて失敗だと思っています。それぞれの個性を殺しあっていて特徴のないものばかりであった。この時代で自分の持つプロダクションは今まで蓄えていた資金を使い果たしてしまった。裕次郎はテレビで歌ってしのぎ、後に「太陽に吠えろ」をテレビ連続ドラマを作り、勝さんは「警視―k」
これは勝さんがリアルにこだわりすぎて彼の味が出ていなかった。
「座頭市物語」はテレビで百本を超える作品を作ったが、監督を兼ねたものは自分の良さを引き出してはいない。脚本家を信じること、勝さんならこうでありたいという、冷静な目で書いたものを信じる思いがほしかった。脚本を書く場合にはいかにオープンセットを組まないでいいかも、制作費のかからないように、それでいて効果を上乗せできるように、物語を書きながら計算して書くものだが、勝さんは凝りに凝り制作費がかかりすぎていった。赤字を積み上げていったのは彼らしいが木戸銭を払わなくていい視聴者はテレビの前から退いていった。
時代に乗れなかったと言えよう。いやあえてそれに挑戦していたのか…。
この時の玉緒さんは口では文句を言うが勝さんに寄り添い借金返済に奔走していた。
借金の重さか、勝さんの表情からシャイでお茶目さが失われていた。
私は勝さんが勅使河原監督と撮った、安倍公房の「燃え尽きた地図」の中に芸術へのあこがれがあったことを知ることになる。この難しい作品は観客には受けるはずがなかった。勝さんはあくまでエンターティメントでなくてはならなかった。その星のもとに生まれた人だったのだ。それは最後の「座頭市」の中にすべてが溶け込んでいた。
勝さんの俳優学校から、小堺一機、松平健、ル―大柴、そのほか多くの影響を受けた役者たち、水原弘は勝さんによって蘇生した、ルポライターの本家竹中労。脚本家の倉本聰、彼は勝さんの葬儀に代表して弔辞を綴った、政治家の宮沢喜一元総理との親交はあまり語られていない。
テレビでは今でも勝さんとのやり取りが話題になっている。
「悪名」での水谷良重さんの演技には限りない拍手を贈りたい。彼女の母水谷八重子の血をそこに見ていた。
勝山のパンツを履かないと…    つづく

「よく来たな」   ⒏

勝さんがハワイで麻薬所持で逮捕され日本に帰りその記者会見で
「これからはパンツを履かないことにした」
これを聞いて私は驚いた。このことはみなさんと違うところで驚いたというべきです。不謹慎と言われればそれまで、勝さんが日ごろパンツを履いているとは考えてなかったからだ。私は男優はパンツなど履いていないものと思っていた。女優もパンツルックの時にはショーツの線が出るのではかない人たちが多くいたからである。それにジーパンをはくとき邪魔になるというのもある。皆さんはどう知らないが、ジーパンをぴったりと履くには洗って濡れているそのままを履くのがその世界では常識のようになっていたからだ。履いて乾かすとくっきりと下半身の線がきれいに見えるということなのです。
その記憶が勝さんにもあると思っていたからであった。
勝さんが麻薬に手を出すほど精神を壊していたことを知らなかった。
「座頭市」を福山の弥勒の里に宿場町を造り撮影をしていた。その時に息子さんが真剣で誤って切られ役の一人を刺すという事件があった。戦前のこと、大河内伝次郎は近眼で殺陣師をいつもけがをさせていたということは言われていたが、事件が公になり勝さんは窮地に陥った。勝さんの胸中は撮影の中止と決めていた。が、勝さんだけでは決断することはできなかった。プロデューサーが集めた金主に対しての責任問題になる、勝さんは心を鬼にして撮影を続けなくてはならなかった。その苦悩は明らかに「座頭市」の中に出ていた。
逮捕の前には勝さんは全国を精力的にディナーショウを展開して借金を返していた時期であった。
岡山ホテルに来た時に私はその場にいた。前席に座って出された料理を前にして勝さんの登場を待っていた。突然会場の灯りが落ちて、けたたましい音楽が鳴り響き開幕を告げていた。スポットライトに映し
出されたのはスーツ姿の勝さんだった。笑顔で瞳が細く照れているように見えた。
音が響くともに、
「久ぶりだねお前…」勝さんのナンバー「いつかどこかで」がはじまった。少しはにかみ歌い続けていた。勝さんの動きの中に幼さを見せていた。独特の歌舞伎役者が使う小股の歩き方だった。一番を歌い終えるとステージを降りてつかつかと私の前に来てじっとみつめ、
あごひげを引っ張って「よく来たな」と言って温かい微笑みを投げてくれた。私の周辺にいた人達はびっくりして見つめた。
勝さんは踵を返しステージン上がり二番を歌い始めた。
それがこの「よく来たな」の言われであった。
その頃、私は篠田監督の撮影現場に通っていた。深夜のオープンセット、寒い雪の降る現場でみんな震えていた。岩下志麻さんは衣装の中に何個もホカロンを忍ばせていた。現場のライトの中で雪が舞っていた。
勝さんは持ち歌と、思い出のサフランシスコなど、アメリカの歌を交えながら時間に乗って語りを随所に入れながら二時間のショウが終わった。
それから何年かが過ぎてパンツの話が飛び込んで来た。憔悴した姿であったが勝さんらしい、パンツを履かない、の言葉が飛び出した。

病と玉緒さんの心・・・つづく


「よく来たな」   9

勝さんに下咽頭癌が見つかったのは、愛妻玉緒さんと大阪歌舞伎座で「夫婦善哉」興行の前後であったろう。これが勝さんの幕になるのだと覚悟をして愛妻へささげる愛の歌であったと思っています。最後に苦労を共にしてくれた愛妻への贈りものであったと思われる。
勝さんは破天荒な生き方を演じて見せてはいたが純朴で恥ずかしがり屋で誠実、人に対しては気配りが抜群の人であった。また、肉親への偏愛ともいえるものが見られた。自分を生んでくれ愛して育ててくれた親兄弟への思いは非常に深いものを持っていた。
母親を亡くした時にその亡骸を抱きしめて泣いた。兄の若山富三郎さんの死に対しては遺骨をかじり飲み込んでいた。父親の杵屋勝東治さんの遺骨もかじり「これで親父は自分の中で生きつづける」と泣いて叫んだ。
石原裕次郎さんの斎場では友人を代表して弔辞を読み上げて涙くんだ。その弔辞は見事な勝節であった。別れに対して勝さんほど心に残るこだわりを見せた人を知らない。
破天荒と言うけれどこれほどの繊細な心の動きをする人だった。
大阪の歌舞伎座を終えて勝さんは入院生活を送ることになる、が医師から禁止されている飲酒もたばこも会見では飲んで見せ吸って見せる、勝さんの役者としてのあり方をみせていた。私はそれを見て泣いた。役者とはこうなのか、いいのか、いいかもしれない、様々な感情が交錯した。悲しいほどの心配りをなぜ演じたのか、それは勝さんだからだった。ここでも奥村利夫として生きていなかった。
勝さんは手術をすることを拒んだ。抗がん剤と放射線治療、勝さんは役者として体に傷を受けることを嫌ったというが、この時勝さんは旅立ちを覚悟して体にメスを入れることを拒んだと思う。メスを入れて少しは生き永らえても、それによって迷惑をかけることを良しとしなかったという心があった。
見てきたように書いている、人がどのように書いているかはしらない。ただ一度の出会い、その時に勝さんから発せられたテレパシーをかわすが1分も満たない時間で私の心に植え付けたものがこうして書かせている。
入院生活を見守る玉緒さんはどのような思いであったのか、役者という商売をしていると本物の顔は出せない。心の忖度はできないが、祈る日々が続いていたことだろう。子供の鴈龍、真粧美さんはどうであったろうか…。
斎場には三味の音が鳴り響き少しはにかむ勝さんの遺影が飾られ、その前で友人代表として倉本聰が弔辞を読み上げた、少し湿った声であった。
大きな星が消えた、勝さんを超える人が出るのだろうか、破天荒を演じ続けた稀代の役者魂を持った人が…。勝新太郎、奥村利夫、杵屋勝丸、享年六十五歳、若い、惜しまれていくこれが役者なのか…。合掌・・・。

終わりの言葉   続く


「よく来たな」   ⒑
勝さんの葬儀には勝さんのファンたちが弔問に駆けつけていた。喪服を着た女性は数えられないほどであった。勝さんの投資していた人たちはそれを香典とした人が多かった。


© Rakuten Group, Inc.